まるやま かおる
丸山 薫(1899~1974)

正太寺には詩人・丸山薫の墓があります。
なぜこんな田舎のお寺にあるのか不思議がられることも多いので、そのいきさつを簡単に説明しましょう。
まずその前に当山十四世住職大河戸秀生を紹介します。秀生は大正十三年に正太寺長男として生まれました。悟道の父であります。
秀生は京都の龍谷大学へ進みますが太平洋戦争が長引く中、徴兵されました。ところが戦地に赴く前に結核を患い、結果生きて終戦を迎えることとなりました。
しかし終戦後は療養するしかなく自坊で悶々としていたようです。暇に任せて詩のようなものをノートに書き綴っていると、それを見た秀生の父(悟道の祖父)龍秀が「今、豊橋に詩人の丸山薫が戻ってきているようだから、いっぺん訪ねてみてはどうか」と知人を介して秀生を丸山薫の自宅へとやります。
秀生は自分の詩を書いたノートを持ってのこのこと出かけて行ったのが始まりとなり、それからずいぶんと秀生は丸山薫に可愛がられたようです。
丸山薫から「僕の豊橋での一番弟子は大河戸くんだ」と言ってもらったと父は嬉しそうに話していました。
また丸山薫は「僕が死んだら、君のところで世話になるよ」とみんなの前で父に頼んでいたそうで、それが縁となり正太寺に丸山薫の墓が建ちました。
この墓をご覧になるとお気付きでしょうが、ここには法名などがありません。これは丸山先生ご本人が望んだことで、最後まで仏教徒には成らなかったようです。

 

【丸山薫賞運営委員会委員による紹介文】
■丸山薫と豊橋(幼少年期)
丸山薫は明治32年6月8日、大分県大分市で生まれました。
国の役人をしていた父の転勤により京城(ソウル)を含む各地を転々としていましたが、父の死により明治44年、母方の祖父の地、豊橋市に移ります。
市立八町小学校、県立第四中学校(現在の時習館高校)で学びました。

■丸山薫と友人たち
大正10年、第三高等学校(現在の京都大学)へ入学し、三好達治、桑原武夫、梶井基次郎らと出会います。
卒業後は東京帝国大学(現在の東京大学)へ進みました。
昭和7年に刊行した第一詩集「帆・ランプ・鴎かもめ」は萩原朔太郎から高く評価され、萩原との交友が始まりました。
昭和9年には堀辰雄、三好達治と詩誌「四季」を創刊し、中原中也、立原道造らとも親交をもちます。
戦時中は「四季」同人の日塔聡の紹介により山形県岩根沢へ疎開し、そこでは国民学校の教員を勤めました。

■丸山薫と豊橋(壮年期)
戦後、疎開先の山形県岩根沢を後にし、昭和23年に豊橋へ戻りました。翌年には愛知大学講師(後に教授)となり、町畑町のキャンパスで教壇に立ちました。全国50校ほどの校歌の作詞をしており、豊橋市内では、愛知大学短期大学部学生歌、中部・豊岡・二川・牟呂中学校、岩西小学校などの校歌を手がけています。
昭和31年、豊橋市多米町の新居に移り、昭和49年、蝉川の自宅で75年の生涯を閉じました。
その後、昭和56年に桑原武夫らが発起人となり、高師緑地に「美しい想念」の詩碑が建立されました。

■丸山薫賞
丸山薫の業績を顕彰するため、没後20年となる平成6年に制定された現代詩賞です。
薫の命日である10月21日前後に贈呈式を行い、受賞作品は図書館で貸し出しています。