霊場・恐山

先週、私は超宗派の集まり(未来の住職塾サンガ)で青森県下北半島にあります恐山へと出かけてきました。市営名古屋空港から青森空港へ約80分。仲間と落ち合い観光バスで3時間北上します。険しい峠を越えると硫黄の臭いが車内にまで漂ってきました。ぐるりと山に囲まれるように恐山はありました。大きな池と岩や瓦礫ばかりの中にお堂などの建物が散在しています。


ここ恐山というところ、ミステリアスでオカルトチックな日本でも屈指の不思議なところというイメージを持っておりました。もっと言えば「怪しい」「おどろおどろしい」「出る・・らしい」など近寄りたくない気持ちさえありました。
ところが今回はこの恐山にあるそう曹洞宗寺院「菩提寺」の住職・南直哉師に会うことができるということで参加を決意しました。
南直哉(みなみじきさい)師は一般家庭に生まれ、自信の生死の問題を解決せんとして永平寺に20年間籠もられたという強者中の強者。永平寺での修業時代には誰もが彼を恐れ、遠くにその姿を認めると誰もが隠れたという伝説を残している。(永平寺のダースベーダーと呼ばれていたとも聞く)
その南師が縁あってこの恐山を護る菩提寺にやって来ることになりました。『禅僧が教える心がラクになる生き方』『なぜこんなに生きにくいのか』『超越と実存』など多数の著書があり、今日本で最も人気のある僧侶のひとりと言ってよいでしょう。そんなカリスマ僧侶・南師と色んな意味で特殊な宗教施設・恐山でひとときを共にするという、願っても無いような機会が恵まれたのでした。

南師の講演を聞く、住職塾サンガの面々。
南師の話は非常に鋭い刃のように、私の怠慢な意識や惰性に任せた生き方をバッサリと切りさばいてくれました。まず現在の日本は極度の少子高齢化社会となり、人口減少が確実にやってくる状況にあります。つまり日本の未来は、どんどんと人がいなくなるということです。そんな中、宗教界仏教界がこれまで通りやってゆける訳が無いという極めて論理的状況把握をされつつ、「60歳以上の者の言うことを聞くな」と断言されました。南師は私より3歳年上の60歳。そんな昭和30年代生まれは人口増加を背景とした高度成長時代を基盤として生きてきた。そんな者たちがこれからの変化を我が事として受け止め、対処できるわけがないと厳しいひと言。
この私も賞味期限切れ間近であります。
これからの社会にはこれからの社会にふさわしい教学、布教、寺院の在り方を見つけてゆかねばならないということです。そしてそれには私たち僧侶が「自分はなぜ仏教僧侶となったのか?」「なぜこの宗派の僧侶となったのか?」もう一度、発心(私はこれを「腹をきめる」「己を賭す」と理解しました)し直す必要があると語ってくださいました。
普段、それなりに法務に携わり、行事やイベントを催しながらも漠然とした無力感を感じていたその根本的原因が教えられたように感じました。さあ、どうする。
私以外の参加者は30代、40代がほとんど。彼ら彼女らに南師の言葉はどのように響いてくれたのでしょうか。



『私に言わせれば、仏教ほど救いのない、ヤバい宗教はありません。
要するに、「自分が自分であることにはしょせん根拠がない」と言っている
のですから。』
どんな深い意味があるにせよ、これだけは言ってほしくなかった。
仏教、曹洞宗を信仰する僧のいう事ではない。
以前、恐山に封書を送ったが、何のレスポンスもない。
インフルエンザでごめんなさい?言葉だけのコメントはやめてもらいたい
折笠様、コメントありがとうございます。
拝見したところ、折笠様は南氏に対してのご意見かと受け取りました。
仏教に深く信頼を寄せていらっしゃる思いを感じます。
残念ながら私から南氏へこの文言をお伝えする手立てがございません。
脇から失礼いたします。
コメント拝読いたしましたが、折笠様と南氏との方法の差で理解、もしくは解釈の違いがあったのかと感じました。
深く理解するために否定から入る方法もございます。
言葉の上で真面目な折笠様はそのため、感情を逆なでされたのかとお察しいたします。
うわべではなく、その底を思索なされたら理解が深まると思いますが、いかがでしょう。
当初から6年半たって、ザラザラした感情の下で、なぜ?という問いに対する思索は深まったでしょうか?
どうか言葉の綾に引っかからず、自分なりの伝え方やなぜそのようなことを南師がおっしゃったのかを考え続けていただけたら、と思います。
折笠様は真面目なために最初のトリガーに引っかかったようにお見掛けいたしました。
相手を否定した後で、その否定を大事に考えを深めることができましたら、拝聴した甲斐があったのでは・・・と。
尚、封書に対するレスポンスについては、一人の人が対処するには手に余る場合、失礼したままになる可能性もございますね。
僧侶も人間で、有限の時間を生きておりますので。
決して南師を庇うわけではなく、第三者からの感想を書きました。
御高名な折笠様に対し、大変失礼なことを申し上げましたこと、お許しください。
相手を理解しようとする生き方は、今の時代に大事かと思いまして、つい余計なことを書いてしまいました。
平身低頭いたします。