幻想の庭 髙木勲展

2020年3月14日(土)~4月5日(日)ギャラリーサンセリテ

僕の先生
地元を代表する芸術家として「髙木勲展」がギャラリーサンセリテにて開催中である。表題にもあるように幻想的なという表現がふさわしい作品が並んでいます。

髙木勲は私にとっては「髙木先生」なのである。私が先生と出会ったのは。私が中学にあがる直前、丁度春休みの時期である今頃でした。幼い頃より絵を描くことが好きだった私に油絵を習わせてあげようと、両親が頼んでくれたのが髙木先生の子ども向け画塾でした。初めて先生のアトリエ兼自宅を訪ねた時のことをよく覚えている。まず玄関は引き戸ではなくてギイと開く木製のドアだった。それだけでも田舎の子にはすげー!と興奮してものです。そして開けた時と閉まった時にカランとカウベルが鳴るのでした。左回りの階段を上がると、目の前に手洗いの流し台。左を向くと高い天井と一面の窓。テレピンオイルや絵の具の臭い、そしてたばこの香り。どれもこれも素敵に見えた。

今回展示されている中で一番初期のもの。1960年とあったので、私が生まれる前である。
展覧会に出品するための作品をギリギリのギリギリまで追い込んでいたので、搬入を頼んだトラックを表に待たせておいて、まだナイフを手に描いていたと以前聞いたことがあったのを思い出した。

先生の所には毎週土曜日の午後に通うようになった。それからは土曜日が来るのが楽しみになった。何が楽しかったといえば、勿論油絵の具に触れられるということであるが、絵を描くことにおいて先生はいつも中学生の私をひとりの人間として対峙してくださったことである。
いつもは家でも学校でも、ガンバレガンバレと言われているようで息苦しく、何を言っても「子どものくせに」という視点でしか受け止められていなかった。それがここではたとえ上手くできなくても、何かやろうとしていることをじっと見守ってくださった。馴れない油絵の具に足を取られ、悪戦苦闘していても、その時には遠くに居て放ったらかし、その後なんとか出口を見つけ書き続けていると、「おっ、いいじゃん」といいながら絵をのぞき込んでいたりした。
先生は私を子ども扱いするようなことがなかった。それがうれしくて何か話したい、なんでもいいからおしゃべりがしたいと思い、今聞いたら恥ずかしくなるような背伸びしたことや、知ったかぶりを多分していたと思う。
でも、先生にもちょっと子どもっぽいところがありました。先生はずっとワーゲン(ビートル)に乗っていて、ある時それが新しいサックス(水色)の新車になっていて。ひと月もした頃にそのワーゲンが黒の新車に変わっていた。驚いて先生に「なんで、すぐに替えたん?」と訊くと。先生は「・・その、ディーラーの子が、黒のワーゲンはこれで最終ですよ。もう出ませんよっていうから・・」とまるで子どもが無駄遣いを注意されて、言い訳しているような口ぶりで笑ってしまった。(実はかわいいと思ったんです)

これも初期の作品。この人頭のシルエットの型紙がアトリエの机に貼ってあったことを思い出した。とても几帳面に制作された絵である。先生はスケッチに行くことをよく勧めてくれた。そしてスケッチしてくる時には、とにかく丁寧に描いておいでと言われた。たとえば大きな機械を描くなら、ボルトやナットひとつひとつ。建物も窓枠やタイルに至るまで描き込んでくるようにと。それが作品に全て反映されるわけではないのだが、スケッチするなかでそのものの構造や仕組みが分ってくる。分ってくれば描けるということだった。

このあたりが髙木先生の作品らしいといわれているもの。虚空を背景に鳥や花がその舞踏を一瞬静止しているかのような不思議な世界である。私は髙木先生がエアブラシを使っているのを見たことがない。もちろん画塾の時には先生は自分の作品はしまわれて、私たちを迎え入れてくれているのだから当然なのであるが、一度でよいから制作現場を見てみたかった。多分マスクをして、マスキングをカッターナイフで切り抜いたりしながら、シュッとやっていたのだろう。制作スピードは速かったのか、あるいはゆっくりだったのか。

髙木先生というと私はケシの花とアネモネを思い出す。作品に多く登場するということもあるが、先生の画塾で何度もモチーフとしてケシやアネモネを描いたからであろう。今でも花屋や道端でケシやアネモネを目にするとつい見入ってしまい懐かしさと共になぜか切ないような気持ちになる。花の中でもケシやアネモネが好きなのだが、絵に描こうとは思わない。どう描いても髙木勲になってしまいそうで、私の中ではいつの間にか避け来ていました。

私は中学、高校と髙木先生の元に通い、美大への受験用に石膏デッサンも手ほどきを受けた。そしてろくに描けもしなかったのに名古屋芸術大学(名芸)に合格する。当時は当然と思っていたが、髙木先生の師匠である石河彦男先生が名芸の洋画科の重鎮だったから、多分声を掛けてくださったのだろう。
その名芸に一年遅れて髙木先生がやってくる。もちろん先生としてである。私はうれしい気持ちと、まるで親がいつもそばにいるような居心地の悪さも感じていて、なんとなく距離を置くようになってしまった。先生もそのあたりは察してくださったのか、学内ですれ違っても目でチラと見てゆくだけだったりした。
私は大学を卒業すると神戸のアパレルに就職する。大学を離れてしまえばまた以前のように髙木先生に親のように甘えるようになり、豊橋に帰省すれば先生の所に顔を出し、ビールなど出してもらうとそれはうれしかった。 
私がその後、実家のお寺を継ぐことになり、本山に勤めたり、豊橋に戻ってきて働き始め、結婚もして、家庭をもってバタバタとしているうちに、先生のところに顔を出す機会もめっきり減ってしまっていた。(自分が絵を描かなくなってしまったことも大きな理由でもあるのですが)
ある日、先生が入院されていると耳にした。見舞いに行くと「面会謝絶」ということだった。それでもと思い、ナースセンターを通じて私が来たことを先生に伝えてもらうと、病室へと入れてくださった。ベッドに横になっている先生の姿を見て、しばらく声が出なかった。元々細い身体をされていた先生だったが、腕や足がまるで木の枝のようになってしまっていた。ガンだった。どう声を掛けていいものか見当もつかず。これまでのお礼を言えば、まるで最期の別れのようになってしまう。かといって気休めに回復を願うようなことも失礼に思えた。
それから二月ほどで髙木先生は逝去された。私が僧侶になっていたご縁で正太寺で葬儀を出すことになった。通夜も葬儀も本当にたくさんの方が訪れ、先生の人望の一端を垣間見た思いだった。先生の棺に花を入れた時、不意に大きな悲しみと申し訳ないという気持ちが吹き出してきて、泣けてしかたがなかった。

先生がいなくなって。私は何度か車を走らせている時に、対向車のドライバーに先生と同じ面長でちょっとボサボサの髪の男性を見かけると、髙木先生ではないかとびっくりしてしまうことがあった。
それにしても65歳という年齢で逝ってしまったことが残念でならない。名芸の学長に推され、多忙を極め、そこから解放される間もなく、病魔に冒され、制作の時間を持つことができなかったでしょう。
今、生きてみえたら私の消しゴムはんこを見てもらいたかったと強く強く思う。きっとニヤリと口元をゆるませて「おもしろい」とひと言いってくださるに違いない。

http://www.sincerite.info/こちらがギャラリーサンセリテの案内です。

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